ぴーちくぱーちく

うるさーーーい!

それはすこし、死ぬことを考えることに似ていた

ラクラっとして、全身がだるさに支配される。なにもできない、なにもしたくないという脱力感を味わっていると、あんなに熱く火照っていた体がスーッと軽くなり、感覚領域が自分の外へと広がっていくような錯覚に襲われる。遠くに見える木の葉の色や、小屋の屋根に当たる雨粒の音など、普段ならば気にならないものが妙にくっきりと繊細に知覚され、でたらめに回していたダイヤルが合いチャンネルが繋がるように、その事象に対して自分が釘付けになる。

 

ドクンドクンとこめかみが脈打ち、体に負担がかかっていることを感じる。

心臓の鼓動の早さや、息づかいの荒さに対してやけに心だけは落ち着いており、頭が真っ白になっていく。

 

それはすこし、死ぬことを考えることに似ていた。

 

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この数年サウナが世間的にブームになっており、周りでもちらほらハマっている人間がいる。そんなブームの立役者というか、サウナにハマっているみんなが口を揃えていう「整った」という言葉がある。これは要するにサウナで温まった体を水風呂で冷やすという工程を繰り返すとスピリチュアルな気分が味わえるという遊びで、血圧を狂わせ、体に負担をかけることでハイな状態を作り出す行為なのだけど、それがなんでか身体にいいっぽい売り文句で広まってて「サウナで健康に!」みたいになってるのが、少し気になってる。別に僕は専門家じゃないので本当に健康にいいのかもしれないけど。僕が最初に「整う」って言葉を見たのはタナカカツキさんの「サ道」で、あの中では別に健康にいいみたいなノリではなく「合法的にスピれるやべー遊び見つけた」みたいなノリで描かれてたと思う。なんか「整う」っていう言葉のイメージだけが独り歩きしているんじゃないかという気持ち悪さをずっと感じている。

 

僕はサウナが苦手というか、あんまりその「整う」という感覚を味わったことがなくて、温泉や銭湯にくっついてるサウナに気まぐれに入っては「熱いなー息苦しいなー」と思って、それで終わっているのだけど、もしかするとあれが「整う」だったんじゃないかという体験を過去にしたことはある。

 

まだ二十歳ぐらいの頃(というとわりと最近の話のような気もしてしまうけど、今36歳なのでもう16年も前だ)京王線調布駅に住んでいて、当時一緒にテクノユニットをやっていたドシーくんが近所に住んでいたので、暇だった僕らはたまによみうりランド駅にあるスーパー銭湯の「丘の湯」に行き、お風呂に入って食事処でダラダラとビールを飲んだりしていた。「丘の湯」には室内風呂のほかに屋外風呂があって、僕は寝転び湯という背中をお湯に浸しながらクールダウンできる場所が好きだった。

 

その日は、あまり天気がよくなかった。風呂に入っている間に小雨が降ってきて、あーあ…という気分を抱えながらも、別に湯からあがるでなく濡れるに任せて外風呂に入りつづけていた。雨で少し濡れていたからか、いつもだったらすぐにあがりたくなるのに少し長く湯に浸かっていられて、立ち上がったときにちょっと体が火照っていると感じた。だから僕は脱衣所にすぐ向かうのじゃなく、休んでからあがろうと、寝転び湯に体を預けて、ぼーっと上を眺めていた。

 

ラクラっとして、全身がだるさに支配される。なにもできない、なにもしたくないという脱力感を味わっていると、あんなに熱く火照っていた体がスーッと軽くなり、感覚領域が自分の外へと広がっていくような錯覚に襲われる。遠くに見える木の葉の色や、小屋の屋根に当たる雨粒の音など、普段ならば気にならないものが妙にくっきりと繊細に知覚され、でたらめに回していたダイヤルが合いチャンネルが繋がるように、その事象に対して自分が釘付けになる。

 

ドクンドクンとこめかみが脈打ち、体に負担がかかっていることを感じる。

心臓の鼓動の早さや、息づかいの荒さに対してやけに心だけは落ち着いており、頭が真っ白になっていく。

 

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あのとき味わった感覚が、もしかすると「整う」だったのかもしれないと、サウナの話を聞くたびに思い出す。

サウナは気持ちがいい、体が楽になる、いろんな感想を耳にする。

 

僕にとって

それはすこし、死ぬことを考えることに似ていた。